コロナバ禍詰将棋作家のひとり言

一時的に新型コロナウイルスの事はがり書きます。

詰将棋ルール

某ブログを見たら無駄合について書かれていた。
その某ブログはブログ名を書いても良いが、このブログではブログ名をタッチしてもそのブログには行けない事が分かったので書かないのである(笑)。

僕も無駄合について書こうと思うが、その前に別のルールについて書く必要がある。
詰将棋のルールで詰上がりには持駒が余らないと言うルールがある。
変長は特例として持駒が余ると言う事は、玉方の逃げ方が間違っているか、作品に不備があるかである。
この持駒が余らないルールは何故あるか考えた人はいるだろうか?
少なく共、小林看空さんと僕は考えたのである。
それは「あーうぃ だにぇっと」さんのブログで意見を交わしたのである。
何べんも言うがブログ名をタッチしても、そのブログには行けないのである(笑)。
色々ブログにコメントしていたら、話がそっちへ行ってしまったのである。
小林看空さんは詰将棋が駒余りを許さない論理的理由が分からないとの意見であった。
僕も同様に感じていたのである。
でも僕は駒余らずルールは何故あるかの見解は持っていた。
それは最後に駒が余らないのは美しいからである。
つまり論理性は全く無視した美的感覚のルールである。
僕は現在このルールがあるからこそ詰将棋は素晴らしいと思っている。
詰将棋は美しいものだと思っているのである。
反面、駒余り可のルールなら手順はもっと面白いものが出来るのではないかとも思っている。
手順の面白さだけを追究するなら、駒余りを可にした方が良いに決まっているのである。
だけど僕は詰将棋は美的感覚が何より重要と考えている。
だけど駒余り可の詰将棋もあっても良いと思っている。
だから最終的な意見として、駒余り可の詰将棋は今の伝統的詰将棋と別と考えて、その詰将棋を創って欲しいとお願いして、話はまとまったのである。
今だにその作品は見ないのであるが。
駒余り可のルールだと、無駄合の概念はなくなるだろう。
むしろ手数を伸ばすために無駄合はするものになるだろうと思われる。
話は長くなったが、無駄合はこの駒余らずルールがあるから、必要になるルールなのである。
無駄合を禁止せず、駒余りにならない詰将棋はかなり限られてしまうのだ。
しかし、現在は無駄合のルールは確立されていない。
何故ならば人によって解釈が異なるからである。
人によって意見が極端に異なり統一するのは難しいのである。
それを承知で議題にすれば、議論は盛り上がるが、誰も自説は曲げないから、水掛論になるだけなのである。
だが、最終的にまとめなければならないと思わないなら、面白いので自説を書いてみようと思う。
それは次の記事にする。