コロナバ禍詰将棋作家のひとり言

一時的に新型コロナウイルスの事はがり書きます。

変別解答について

★7月号の看寿賞選考会議の記事を全部読めと言われるなら、ちょっと拷問のような気がするのは僕だけだろうか?

☆この記事は変別解答について書いてみたいと思う。
現在詰棋校では変別解答はバツ。……のはずである。
変別解答とは作意でも詰むが、同じ手数の変化駒余り順があるのに、作意(作意じゃない場合もあるが)を解答する事である。
作意より短い変化の場合は明らかな不正解であるから今回は同手数駒余りの事とする。

★小学校20野曽原直之作の最後の36同銀生は成の解答は変別解答をバツとするなら明らかな不正解だと思う。

☆僕は実は変別解答誤解は大反対である。
時代は変わっているのでもう一度議論されるべきと思う。

★変別誤解反対なのは、解答者は折角詰む順を見付けているのに他に詰む順を探す作業が面白いのかと思うからである。
この作業で解答者は満足感は得られないだろう。
ならば作家はそうならないように創るべきだと思うのである。
作家からすればいつも完璧には創れない。ある程度仕方ない作品もある。
そんな考えなので、変別変化は作家からするとキズだと思っている。
変別があるのは言わば作者の負い目で、それで解答者が不正解になるなんて理不尽だと思う。だから変別解答が誤解になるのは反対なのである。
これは心情的な理由。
次に論理的理由を書く。

☆まず、これ駒余りの変別について書いている。
短い手順の場合は変別は負い目であるが、見付けて欲しい。
詰将棋はそもそも駒余りは何で不可なの。
論理的理由がないじゃない。……これ前に書いたが美的感覚ルールである。
持駒が余らないように創るのは作者に対する美的感覚ルールだと思う。
その方が美しいからそう創れと言うルールにしたのである。
本来は解答者は駒が余る余らない関係なしで玉方最長手順を答えれば正解だと思う。
でもそれは作者にきつ過ぎる。
ここは解答者に譲歩して欲しい。創作上ルールで駒余り不可なら、同手数駒余りは不正解だと。
これが僕の考え方。
譲歩と言う考え方、これがどこが論理的なのが(笑)。
一つのところで両方あるなら、譲歩してもらったところで不正解とするのは人間としてどうなのかである。

★論理的理由と書いたので論理的理由にするなら、玉方最長手順は駒余り駒余らずどちらも正解にすれば良い。(但し、評価は作意は限定されているものとする)
駒余りに創る事はないのだから、(大道棋は別として)駒余りの解答はしない。
意地悪で駒余り順を解答して低評価をするのは可能だが、このルールで問題ないはずである。

☆この理論は変化は2手以上短く創るものと言う考え方である。
実際にはこれは難しいので同手数駒余りは変化としましょうって事。
今、変長のルールがあるが、同手数でさえ許容してもらっているのに2手長い。ハッキリと論外である。

★ところで小学校20野曽原作であるが、僕の提案ルールでは成・不成どちらも正解である。
手順は限定として評価とするなら成解答は誤評価の可能性がある。
これ誤評価で評価を下げても、それは作者がそのように創った作者の責任。誤評価にあらずと言う考え方である。
僕は前に変化は割り切れているのに変同とされた事がある。これ僕は全く誤評価だとは思わなかった。
そう創った自分が悪いのだと。
野曽原作であるが変別を前提に創っているので、限定になっている事は評価しないと言う考え方もあると思う。
って言うか、こう僕は考えるのだが、そんな人はどれだけいるだろうか。