コロナバ禍詰将棋作家のひとり言

一時的に新型コロナウイルスの事はがり書きます。

懲りずにコリジョンルール

【懲りずにコリジョンルール】

☆又々、コリジョンルールについての話である。
コリジョンルールは懲りずに話すからコリジョンルールと言うのである(冷笑)。

これを何度も記事にするのは、変長ルールと共通点があるからである。
共通点は野球のブロックルールと詰将棋の変長ルールは悪法と言う事である。

★まず悪法とは何かであるが、ルールには目的がある。
その目的のために効果がない。更にそのルールのために悪い事が起きる。
それを悪法と言う。
これは誰も異論はなかろう。
野球のブロックルールと詰将棋の変長ルールは、だから僕は悪法だと言っているのである。
悪い面については両方共世間が周知する事である。
問題は効果がないかどうか。
100%なければ廃止に反対者はいない。
僕とて100%効果がないとは思っていない。
だが、効果が極めて低い事を理論として持っている。
これを証明するには実際に廃止してみるのが確実である。
実際に廃止すれば結果が出る。
そして、やはり効果は低いかったとなれば、何で前はこんなおかしなルールになっていたのだろうとなる。
コリジョンルールはそうなると言うのが僕の理論。
変長ルールも同じ。
コリジョンルールは実際に実行されたので2・3年したら結果は出る。
変長ルールも廃止されればそうなると言うのが僕の理論である。

コリジョンルールであるが、これは新ルールではない。
ブロックルールを廃止したための細かい取決めである。
本塁も二塁や三塁と同じになっただけの事。
僕は野球のルールがどうなっているか知らないで書いているが、ブロックルールの意味はこう。
捕手は本塁は一部分を空ける事を条件に、体を使ってホームベースをタッチし難いように邪魔して良いと言うルールだ。
これ野球を知らない人はなんちゅう不自然なルールだと感じるだろう。
詰将棋の変長ルールは2手長くても持駒が余るなら変化になる。
これ詰将棋を初めた人は何でと思うような不自然なルールである。
不自然と言う事は逆から見れば、理由があるからこそ出来たルールだと判断出来る。
ブロックルールは点を入り難くするのが目的。
ホームでアウトにし易くするためのルールなのに、その効果がないならいらないルールである。
自然にあるルールなら廃止する必要はない。
不自然なのに効果がないなら廃止するべきである。

詰将棋の変長ルールは作品として許される範囲を拡げるためのルールである。
僕は変長ルールがあっても作品になる範囲はほとんど拡がらないと思っているから、廃止を訴えている分けだ。

★ブロックルールがなければ、送球がそれればアウトには出来ない。
ブロックルールがあればアウトに出来る場合もある。
これ一見有利に思えるが大した事ない。
どうせそれたらほとんどセーフになってしまう。
逆にブロックしないメリットがあるくらいだ。
キチッとキャッチーに返球しないとアウトにならないなら、より練習して出来るようにするはずである。
それからキチッリ返って来るなら、ブロックの動作をするより早くタッチ出来る。
逆にそれた場合、ブロックの動作をしたばかりに反応が遅れ、後にそらす場合もあるかも知れない。
まあ、実際これは好ブロックのお陰で得点を阻止出来たと思うプレーもあるが、これ野球の面白さとは違うと思う。

詰将棋の変長であるが、これによって詰将棋の創作範囲が拡がるなら僕は廃止には反対する。
実際に変長を認めたところで創作範囲が拡がりはしないのである。
過去に賞を取っている作品に変長作は結構あるが、そのほとんどが変長が認められなくても作品にする事が可能である。
変長にしないようにするには、作意に2手加えて伸ばせば良いだけなのである。
それなのに変長で発表されたのは巧い方法が見つからなかっただけ。
これが僕の変長廃止を訴える理由の一つがこれである。
それらの作品は、初めから変長ルールがなければ、作者は変長にならないようとことん考えるのである。
変長ルールがあるので、作者はルール通りに創っている。なのに悪いと言われる。正に悪法である。

僕は言いたいのは変長ルールは廃止した方が良いルールではなくて、廃止しなくてはいけないルールだと言う事である。

★僕は新しいルールを作ろうと言っているのでない。
不要ルールの廃止である。
もし、変長ルールが廃止になれば過去の変長作はどうなるか。
これはむしろ廃止にすれば正当化する。
ルール通りに創っているからである。
廃止してしまえば、その当時の変長作はキズさえあらずと言う事だって出来るのである。

悪法は政治で分かるが、簡単に作られる。
だが、廃止するには大変な時間と苦労がある。
変長ルールを廃止するのは簡単でないし僕の力では何ともならないが、廃止しなくてはいけないとブログに何度も書けば、その時間が少しでも縮まればとの思いで書いているのである。